救済

現実世界の常識という概念が脳裏に張り付かぬよう

雨宿りみたいな人生です その場その場を凌ぐだけで根本的な解決なんてひとつもないんですよ

 私の幸せや可愛がり方はとても厄介だった。周りの目は気にせずに正直に生きて、生きがいを模索しちゃダメなんて思想に囚われないでほしい。 私が守ってあげる。その思考という名の宗教から棄教させてあげる。私が愛してるものは昨日も今日も明日もとっても芸術的に美しい。そういえば「自分を愛せないやつが他人を愛せるわけない」って誰が言い始めたんだ。私の見てきた限りでは、自分しか愛してないやつの方がよっぽど他人なんて愛してなかったけどね。軽々しく他人の言葉を引用して講釈たれてきた人間がいたこと思い出して、あぁうるせえな。それならば私は私を愛してる、これで万事解決でしょう?今日もSNSが病んでて可哀想とかこの人辛いんだろうなだとか、いやぁ、そんなそんな、、気にかけてくれてありがとうございます大変恐縮です。という気持ちでいっぱいだし申し訳ない。私に関しては、気持ち悪さや哀れみの思考の先の先の先をいってるから、心配しなくても平気だと言いたい。自傷行為に見せかけた自慰行為。今日はちょっと気分が違うな、 気になってたジュースを買ってみようかな そんな感覚でフェードアウトしてく。もしも順位付けが可能ならばそんな日が、人生で一番辛かったわけじゃきっとない。虚実の真ん中、この記事のような書き方みたく主観と客観の真ん中にいて、私はいつも自分の立ち位置が曖昧。私はいつまでも、この哀愁に恋してる。先生、あのね、わたしは今日も幸せだよ。先生あのね、今日も手をあげて意見を述べれたし、明日のバイトにだってノリノリののっちゃんで行くつもりだよ。毎日がディズニーランドより楽しいよ。だからね、心配しないでね。今日も世界を愛してるよ