救済

現実世界の常識という概念が脳裏に張り付かぬよう

どうかお嬢さん、僕の寂しさを盗んで美しい文章を綴ってください。

 目覚めの悪い昼夜逆転生活の中で、今の私は書類の提出で市役所が開く時間を待っている。午前8時半、それは誰かが退屈で窮屈で始まる前から終わりにしたい一日の始まりなのだ。そんな"午前8時を待ちわびている”という言葉は不謹慎なのかもしれない、よく目にするツイートの不謹慎だろっていう他人へのリプライ、あの様なものを見るとモヤモヤした気持ちになるのはきっとこういう理由で、君も不謹慎を叩く権利がないと思ってしまう。しかし権利というのはいつしも本人も備わっていないといけないのか?思考したら止まらない。無駄。絶賛就活中の私はエントリーシートで自分自身のキャッチコピーを考えている、おそらくアドリブで答えを求められたらこの様なその場のちょっとしたインスピレーションは私にとっては美味しい質問だ。なのに、エントリーシートとなるとそうはいかない。自由度が高い質問だからこそ物凄く深く考えてしまう。終いには「これ以上考えるな。いのちが危ない。」と書いてしまいそうになる。この質問で重大視されるのはどうしてその様な言葉を選んだのかだから、あまりタイトルは深く考えなくても良さげで「ほーん」と思わせられる意味付けの方が大事なのだ。分かってる…分かってる……分かってても出来ない事ことが多すぎるから睡眠というものが人間には思考と同時に備わっているんだろう、これは人工が圧迫し自分たちでは対処しきれないことを見据えた"神様"からのご褒美なのかもしれない。神様とサンタクロースはどっちが凄くて偉いんだろう。漢字と歴史の深さから圧倒的神様だろうが、縋り付いて欲しているものを与えてくれるという意味合いでは、私にとっては酷似している。なので、どなたでもお手すきの際で構いません。私にも、もう少し賢くなる思考を備え付けてください。