救済

現実世界の常識という概念が脳裏に張り付かぬよう

 

 悪戯を踏み潰す事さえ出来ず仮名義は何の役にも立たなくて僕が僕である事の現実が漠然と現れる日々の憂鬱はツイートで誤魔化し自分をちゃかす、さよならを言って情緒を擽る遊びはもう飽きたし嘘はいけない大人になったら分かると言い放ってた先生に矢が向きそうだだって僕達の今まで培ってきた言葉を捻り出して使う慎重であるつもりの言葉に一体どれ程的確だと言えるような気持ちがあるというのでしょうか空気を読んじゃう正論ほど痛いものは無くて歪んだ正義感を持った人間は悪人呼ばわりだね、あぁそうそう宇宙になる夢はもう2年前に諦めましたこの話まだしてなかったっけ寝ぼけ眼で明日に向かう午前四時は退屈だからじゃがりこの音を大げさに鳴らすひとりあそび

 

クオリティとはオリジナリティの上位互換である 

 初詣どこの神様にお願い事をするか迷う。結果暇そうな神様にしようか人間が命名した神様というものを逆手にイベント感覚で明治神宮らへん行っちゃってまだまだ若い者達についていこうか迷う。無難なのは"近所でそこそこ有名な神社"ってところだろうか。なんだ、神様にも松竹梅の法則が通用してんじゃんか...。一気に味気ないなと思いながら年末は、神様の気持ちになってみようとする。

 神様、僕は教祖になりたいんです。この世界で生きてる"当たり前"だとか、"可哀想"なんて言葉で傷を抉る人達に注目され、それらにより生きづらさをかかえている人を救いたいんです。神様、私は、虚無感や空虚感という言葉を覚えて、感情に言葉を当てはめる様に使っていましたが、どれもモヤっとしているんです。他人への嫉妬や妬みみたいな感情が人より少ない、むしろ無いに近い方だと思っているんですが、渇望はしているんです。これはなんなのでしょうか。あ、神様は精神科の先生じゃないからこんなこといきなり言ってしまってすみません。何が言いたいか良くわからなくなってしまいましたが神様はきっと凄いと思うので何とか言いたい事を上手く感じ取ってくださるでしょう。この願いが叶いますように。あ、病気にはなりたくないです。

みたいな事を10秒ぐらい手を合わせて思考してるんだけど、みなさんどうです? 

来年から大学5年生かまたまた晴れてニート!どちらにしても未来は明・る・い!!

卒業後、秩序よく歩むのは性に合わないと感じ、混沌とした世の中に立ち向かい、ニートになった暁には全力で世間の目の痛さや狭くなる人間関係、就活や周りのため息、生き急いでる東京のいつもの光景に黄昏ながら、さよならの別れはいつも情感を伴うなあなんてことをエッセ・・・いやポエムにした様な「ビバ☆クソ被害者ヅラ穀潰し日記」になるか、それともそれともネットで喧嘩しながら余裕な生活を謳歌してるか、みなさんどうがTwitterでも配信でも構いません。来年も私を見ていてください。

 

良いお年を~!暇な神様いたらLINEくれよな!スタンプと願い事送っとくからさ!

 

 

 

雨宿りみたいな人生です その場その場を凌ぐだけで根本的な解決なんてひとつもないんですよ

 私の幸せや可愛がり方はとても厄介だった。周りの目は気にせずに正直に生きて、生きがいを模索しちゃダメなんて思想に囚われないでほしい。 私が守ってあげる。その思考という名の宗教から棄教させてあげる。私が愛してるものは昨日も今日も明日もとっても芸術的に美しい。そういえば「自分を愛せないやつが他人を愛せるわけない」って誰が言い始めたんだ。私の見てきた限りでは、自分しか愛してないやつの方がよっぽど他人なんて愛してなかったけどね。軽々しく他人の言葉を引用して講釈たれてきた人間がいたこと思い出して、あぁうるせえな。それならば私は私を愛してる、これで万事解決でしょう?今日もSNSが病んでて可哀想とかこの人辛いんだろうなだとか、いやぁ、そんなそんな、、気にかけてくれてありがとうございます大変恐縮です。という気持ちでいっぱいだし申し訳ない。私に関しては、気持ち悪さや哀れみの思考の先の先の先をいってるから、心配しなくても平気だと言いたい。自傷行為に見せかけた自慰行為。今日はちょっと気分が違うな、 気になってたジュースを買ってみようかな そんな感覚でフェードアウトしてく。もしも順位付けが可能ならばそんな日が、人生で一番辛かったわけじゃきっとない。虚実の真ん中、この記事のような書き方みたく主観と客観の真ん中にいて、私はいつも自分の立ち位置が曖昧。私はいつまでも、この哀愁に恋してる。先生、あのね、わたしは今日も幸せだよ。先生あのね、今日も手をあげて意見を述べれたし、明日のバイトにだってノリノリののっちゃんで行くつもりだよ。毎日がディズニーランドより楽しいよ。だからね、心配しないでね。今日も世界を愛してるよ

嘘を人生の潤滑油にしてたけど機械が故障していた

 いつか乱暴な言葉を使わずに美しい言葉で復讐がしたい。と、Blogを始めた1記事目にそのような事を書いていた気がするし、そしてそれはずっとずっとずっと前から自分が思っていた望みでもある。この間また歳を重ねた私はそれが出来るようになったのか、いやあの頃と同じ事しか言えなく思ってもいない事を実感する事が日常生活で多々ある。だから出来てないんだろう。出来てない出来てない出来てないなう~☆マジウケるんですけど~(笑)っていうように、いつも若者の流行りの言葉で自分を誤魔化し誤魔化し生きる癖が治らない。丁寧に書いていたレポートや絵や何かのプロダクトも計画も最後の仕上げ作業がどうしても出来ない。自分が本気でやってどのぐらいの価値になるのが明確になるのが怖い。怖い怖い。。。結局臆病のままここまで来てしまった。"勇気"なんて生ぬるい意味ではもうダメで"覚悟"が必要になってきた。言葉は意味を持つから、言葉を教わったおかげで振り向かざるを得なくなったものがどれだけあるだろう。"意味"なんて持つのは人間の悪い癖だってどっかの偉い人が言ってたように、暦や年齢で節目を決めるのは正しくないんだろう。この正しい正しくないはあくまでも私自身の中での話でそれ以上の場所にはこの言葉は意味を持たない。台風の音よりも耳鳴りが止まないからそれ以上の音楽を爆音で流してる。もっとディスコを、もっとノイズを、もっともっともっと大きな音を奏でて思考が止まらない頭の中を支配してくれよ。嗚呼

 

 

倦怠感に溢れた生活に突き刺す言葉をくれ

 9時12分、地下鉄から降りる際の予想気温は私の平熱よりも高い。あらゆる芸術を放出してきた人が早くして死を選択してしまう、芸術の自己表現は心理療法であり、人生に置いて芸術作品は完成するようなものでなく所詮プロセスにしか過ぎないのだ。それを人生のゴールと位置づけてしまった人が去る世界で在ることに気づけば良かった。いや、訂正する気づいていたはずだ。それを選択することで人生までアートにしているかのように感じる。議論する前にその世界にいることが場違いな生活を、本日も送る。誰かの言葉で心をかき乱されるのは猛烈にかっこ悪いことかもしれない。それでも私は今誰かの文才の暴力でふわふわ浮いている生活をガシっと掴まれえぐられたい気分だ。Wikipediaじゃもう満足出来ない。

はないちもんめは子供の遊びにしては残酷すぎる。

「私、何をやっても全部中途半端で、その割に人より多く手を出すので自分の無能さというか、私って何をやらせても全部に不向きなんだなって思って可能性の無さに絶望するんですよ。努力出来なさとかそういうのにも...」と、淡々と自分語りをしていた時の事だ。それが終わると「いいじゃないですか。どんどんやってどんどん辞めていきましょうよ。」と言ってくれた人がいた。今でもその言葉に救われる。「辞めてきた事の数はやってきた事の数ですよ、見つかるまで辞めて行けばいいんですよ」と。

 「挑戦的ですね!」「好奇心旺盛ですね!」みたいな言葉は10000回ぐらい聞いてきたし、私の自虐をうんうん聞いてきてくれた優しい人も生きてきた中でも多かった、もちろん説教も沢山されてきた。それに、改善記事や似たような人のブログもいっぱい読んできた。けれどもこれ程までに私の励ましになった言葉はかつて無かったかもしれないと思う。誰かのネガティブな発言を肯定するのは、いつなんどきも私の役目だったはずだけど、ダメダメな私を"家族、恋人、友達"とか、そういうどの立場からでも無く、この言葉で肯定してくれた。人によっては"ありふれた励ましの1つ"かもしれない。しかし、映画の名言や偉人の格言にも勝る程にこの言葉は私の中では最強の救いだ。

 

なんとなくわかったような気になって「登校拒否」とその子を呼べり

没個性を殺して新宿でしあわせを探したけど見つからなかった。ただ、馴れないハイヒールを履いたせいで足が痛くなっただけだった。今日がなんの日か知ってる?んー多分誰かの誕生日!うん、そうだね。震災等の悲しい事件、あれはもう事件だ。事件が起きた翌年でも誰かにとっては特別な日だったり、待ちわびてた日だったりする。繰り返される毎日の一日に過ぎないのだから不謹慎なんてどうか呼ばないで欲しい。ところでなんで今こんなことブログに綴ってるのだろう。おそらく、いや絶対に今私は"何かをしていないと満たされず落ち着かない症候群"にかかっている。何をしても満たされないのだ。通知表や貯金通帳の残高、異性で満たされるような人間になりたかったとは口癖の様に言っている。昨日、用事があって渋谷へ足を運んだ、1時間前について暇だったので洋服見ていたら気持ちを満たそうとしたのか洋服を何着か買ってしまっていた。なのにも関わらず、可愛いワンピースを買う時も満足感は得られなかった。「その科学が成功を決める」という本にも書いてある通り、一時的に買い物をすると幸福度は上がるが、ほんの一瞬程度で後は同じらしい。よって幸福度はお金では買えない。まぁそんな事は分かっていたけれど、本にも書いてあったって伝えたほうがエビデンスとしていいかなと思いまして。「お金=幸福を得る通過点、不幸にならないもの。」としか認知してないので執着心が無いんですよね。珍しいですかね。ところで、昨日はお会計の時ですら幸福感というか"満足度"が無かった。誰かを見て安心もしないし嫉妬もしない、だけど理想見たいなのがこびり付いて離れない。満足をくれるものをいつも探し求めてる気がする。最高になりたい。最高になりたい。最高じゃないのなら、後は全部同じだよ。